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カテゴリー「小説・漫画」の記事一覧

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作家・紅玉いづきはライトノベルでデビューした

風切り駆け抜け めくるめく
さまよう夜空に当てはなく
心に願うはただひとつ
『いつか』
風切り駆け抜け めくるめく
流れる涙は風に乗り
何を知る。
 「夜鷹」(ジン)

「大正箱娘 新人記者と謎解き姫」(紅玉いづき)を読みました。発行されたのは1年前だけど、読んだのはつい先日。全四話からなる連作短編形で、いずれのミステリーテストです。何かに縛られた女性を巡る事件が起こり、記者である紺が調査することで物語は進んでいきます。

「大正箱娘 新人記者と謎解き姫」(紅玉いづき)
あらすじ:新米新聞記者・英田紺は、ある事件に出くわし、悩んでいるところ、上司の紹介で、神楽坂にある箱屋敷と呼ばれる館を訪ねた。そこで箱娘・回向院うららと出会う。箱娘は、どんな箱を開けることができ、また閉じることも……。秘密や想いの詰まった箱と、女の自由を巡る物語。

紅玉いづきという作家

こっそりと好きだった作家さん。「ミミズクと夜の王」にて、第13回電撃小説大賞・大賞を受賞し、作家デビュー。電撃小説大賞っていうのは、ライトノベルを対象とした公募の新人賞です。
ライトノベルというは、究極は作品の質ではなくレーベルによる分け方だと思いますが、無理に定義するなら、アニメと文学の間にある、中高生をメインターゲットとした小説の一ジャンルでしょうか。
当時の印象として、さいきん猛威を奮っている「異世界転生・ハーレムもの」の隆盛の直前であり、そんな量産型ファンタジーの気配がしつつある中で、「ミミズクと夜の王」みたいな作品が大賞を受賞したのは衝撃的でした。
「ミミズクと夜の王」は、童話のような語り口の、世界観の作り込まれたファンタジーです。こんなのライトノベルのメインターゲットである中高生に理解できるんだろうか? 作り込まれた世界観に気づかないで、童話の子どもっぽい物語って切り捨てられてしまうんじゃないだろうか。勝手ながらそんな心配をしていました。

「ミミズクと夜の王」は十分に優れた作品だったのですが、なんとなく本好きとしての嗅覚が「この作者の傑作はこれじゃないぞ」と感じるところがあり、その後、作品を追っていて、2010年「ガーデン・ロスト」が刊行されます。一読して、すぐに頭から読み直したのを覚えています。私はこの作品に出会うために紅玉いづきさんを追っていたんだと思いました。

そこで満足してしまったのか、その後、刊行をまめにチェックしなくなったのですが、書店で見かけるたびに購入し、やっぱり、好みの作品を書くなぁと満足していました。

メテオ・スカーレット(紅玉いづき個人サイト)

実際の読書しての感想は次回に引き継ぎます。

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少女は母と友達になって、女になる【「少女七竈と七人の可愛そうな大人」から読む「ゆるせない」と向き合う人生】

「ご飯はなぁに?」
 積まれたマンガを、蹴飛ばす。
「塩鮭と菜っ葉のお味噌汁。それからたらこのいいのもありますけど」
 古い大きな鞄を蹴飛ばす。
「出してよ。たらこのいいの」
「もったいないけど、出します」
「もう、なにがもったいないのよ」
 母が悔しそうに言う。「たらこをのせて、のりで巻いて、ご飯が食べたいわ。いやだ、こんなときにご飯が食べたいんだわ、わたしったら」とぶつぶつ言いながら立ち上がる。

「少女七竈と可哀そうな七人の大人」(桜庭一樹)

大好きな作品で、もう何度読み返したでしょうか。
以前、友人に貸し出したとき、「なんでこれが一番のオススメなの?」と聞かれました。
どうやら友人には、響かなかったらしい。物語っていうのはけっきょくのところ、相性なので、どんなに優れた物語でも、むしろ優れていれば優れているほど、分からない人には分からないものだと思っています。
だから説明することにあまり意味は感じなかったのですが、適当なことをいうのもアレなので「私の知る限り、一番、寂しくてきれいな物語だから」と応えました。分からないなりに理解してもらえたようでした。

少女七竈と七人の可愛そうな大人(桜庭一樹)

あらすじ:「たいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった」少女・七竃(ナナカマド)は、群がる男達を軽蔑し、鉄道模型と幼馴染みの雪風だけを友として、孤高の青春を送っていた。だが、可愛そうな大人たちは彼女を放っておいてはくれない。小さな雪の街・旭川を舞台にひっそりと繰り広げられる「ゆるし」の物語。
※ネタバレを含みつつ書きます。

「少女七竈と七人の可愛そうな大人」は、いかにも桜庭一樹らしい、独特の文体で語られます。
顔のことを「かんばせ」といい、少女・七竈は「まっぴらごめんであります」と言う。擬古文のようなところもありますが、ひらがなが多用されていて、硬いのか、やわらかいのかさえ分からない文体。これが本当に素敵で、たとえば、硬いではなく、「かたい」と書いたとき、その硬さに疑いが生じませんか? 文脈にもよりますが、ひらがなの「かたい」には、表面はやわらかいけど芯は鋼鉄のようだとか、辞書には書けないニュアンスが潜んでいる気がします。劇中の印象的なひらがなとしては、上記の「かんばせ」もありますが、「いんらん」も頻繁に登場します。

物語は、言ってしまえば、片田舎で、暮らす美少女が、一歩大人になって、地元から離れていく。ただそれだけの物語です。各話ごとに語り部は変わりますが、語られているのは、あくまでもごく狭い範囲で展開される、個人的な物語。世界を変えようとしてる人なんて出てきませんし、誰もが自分の生き方・心の在り方に向き合うことに精一杯です。
そしてこの物語は、七竈と雪風の物語であると同時に、あらゆる人物の「ゆるし」の物語でもあります。

誰もがゆるせないを抱えている

少女・七竈は母・優奈を許せないでいます。それは当然のことです。母・優奈は旅人で、七竈を生んでからも家を空けていました。はたして、少女・七竈は、旅人の母・優奈の代わりに、祖父に育てられます。「いんらん」な母のせいで美しく生まれてしまったと、行き場のない怒りを感じながら。
ちなみにこの母・優奈は他人の「ゆるせない」を集めるのが得意みたいで、沢山のゆるせないを一身に受けています。6話のタイトルにもなっている「死んでもゆるせない」は優奈に向けられたものですし、桂多岐からも「ゆるせない」を向けられているように思います。桂多岐は、優奈の友人で、旅先からふいに用もなく電話をするような仲です。近況に愚痴を言いながら、もうどこにもいけない私と、どこにもつけない旅人のあなたと、「どっちが地獄?」と聞き、「あなたよ」「そうかな逆じゃないかな」と言い合うような仲です。日向ぼっこみたいな友達ごっこではなくて、もっとスリリングな! 脆くてかたい薄氷のうえで見つめ合い、笑いあっているような、友情。
ゆるせないひとなんていうのはただの八つ当たりで、世の中に溢れかえっているゆるせないことの象徴として、その人が選ばれただけのことだと思います。桂多岐が優奈をゆるせないのは、わたしに貧乏くじをひかせた、恋にクルッタ女たちの代表として、ゆるせないに過ぎない。
だから、本当は、ゆるそうと思えば、いつでも許せるんじゃないかと思います。もっとも他のゆるせないを探すだけになる気もしますが。
ゆるせない人をゆるすことができれば、きっと、もっと、楽に生きることができます。だって、ゆるせないを抱えながら生きていくのは苦しいから。
だけど、この物語は、「母をゆるさないことだけが、わたしの純情です。」と結論を結びます。
ああ、そうか、ゆるせないとどう向き合うのかが、人生をどう生きるのかということなのだろう。無邪気にゆるせないと叫び続けるのは子どものすることで、大人になるということは、ゆるせないの対象をみつけて、じっくりと時間をかけて、ゆるせないと向き合っていくということなんだろうなぁと思いました。
とろこで、たくさんの「ゆるせない」を一身に受けている優奈ですが、彼女もまた許せないを抱えています。それはたぶん、優奈の母、つまり七竈の祖母に対して。優奈の母は、優奈が大学を卒業して、地元で教員になってすぐのころに亡くなっています。直接の描写はないのですが、厳しい人で、我が娘は、昭和の田舎の女はかくありなんと育てました。優奈に言わせれば、平凡な白っぽい丸のような人間。地元で教員になる、というのも、白っぽい丸の一部であるように思います。
優奈が旅人になってしまったのは、辻斬りのように男遊びをしたくなったからでもありますが、ゆるせない人である母との向き合い方を見つける前に失ってしまったからだと思いました。ゆるせないはあるのに、そのゆるせないと向き合うことができないことが分かりきっているのなら、もう、狂うしかない。
物語をとおして、少女から女になった七竈は、「母をゆるさないことだけが、わたしの純情です。」と自身の向き合い方を見つけるのですが、その少し前、泣きながら母にあれこれと言い争いをした後、雪が解けたように、まるで大人同士のように話し合う場面がとても好きです。私の家系をみていてもそうなのですが、父と兄はいつまでも父と息子ですが、母と妹は、いつのまにか友達のようになっています。少女が女になるということは、母と友達になることなんだなぁと思いました。
さて。
少女・七竈は母・優奈をゆるせなくて、母・優奈は自身の母をゆるせないでいます。この「血の連鎖」は、桜庭一樹さんが繰り返し描いているテーマです。直木賞を受賞した「私の男」もそうですし、「赤朽葉家の伝説」もそうです。これについてはまた日を改めて。ほかの桜庭一樹作品を再読してから、記事にしたいと思っています。桜庭一樹さんについては、他にもいろいろ書きたいことがありますので。いつか書きます、きっと。

少女七竈を彩る世界

書きたいことをだいたい書いてしまって、蛇足の感もあるのですが、劇中の色の描写についてもすこし述べてみたいと思います。
「少女七竈と七人の可愛そうな大人たち」は、象徴的な3つの色あります。
ひとつは「白」。旭川の雪の色。劇中を彩る基本的の色です。母・優奈の抱く「白っぽい丸」はとうぜん白ですし、七竈のかんばせの色でもあります。美しい色であると同時に世俗の色として設定されているように思います。
二つ目の色は「黒」。黒とは真逆の色です。七竈の好きな鉄道模型は、「つめたく、黒い」や「黒く鈍い」などと描写されています。そして、七竈の髪の色でもあります。白に埋め尽くされた旭川の街で七竈が作り上げている異形の世界の色。ちなみにビショップの色でもあります。
三つ目の色は「赤」です。これは、七竈の実の色です。マフラーの色でもあり、少女・七竈を象徴する色になっていますが、実のところ、上記のとおり、七竈は白も黒も持っています。
この3色を基調に少女・七竈たちの暮らす旭川の街は描かれています。文庫本版のデザインは他の桜庭作品との一貫性を意識して、作品そのものを意識したものではなくなっていてますが、単行本の表装は、それを強く意識したデザインになっています。読後に眺めると、いろいろと感じ取るところがあります。
さて、旭川の街は「白」「黒」「赤」の三色を基調として描かれていますが、劇中で、いちどだけ、旭川ではない街の描写があります。
東京です。「異形は都会に紛れる」は「私の男」にもみられる桜庭一樹さんの作品世界の哲学ですが、「少女七竈と可愛そうな七人の大人」では、あふれるカラフルな世界として描かれています。
すごく象徴的だと思います。白を基調とした旭川の街で、黒や赤の異形として暮らしていた七竈が、異形も紛れる東京、カラフルな世界に出ていく。色の配置だけで、物語として、成り立っています。ちなみに東京で出るときには、鉄道ではなく、飛行機で行きます。無粋な乗り物。
色を意識して物語を読み直すと、いろいろ発見があって、「望遠レンズ付きの写真機というものはまるで、機関銃のように黒々と張りでているのだなぁ」とか「鼻にちいさな白いギプスをした母」とか。七竈の作っている「黒」の世界が、鉄道の「模型」であるというのも、面白い。きっと「炭」の色も黒です。
桜庭一樹さんの作品は、幾作かが映像化されています。
未映像化作品として「赤朽葉家の伝説」とかは、できるものならやってみろと実写化を歓迎しますが、「少女七竈と七人の可愛そうな大人たち」に関しては、触れないで置いてほしい。
それは私にとって永遠の美少女である「少女・七竈」を特定の役者が演じ、固定のイメージでもって語られるのが嫌というのもありますが、色をどう処理するのかという問題は克服できないだろうと思うからです。
単純な話、たとえば真っ黒な鉄道模型といっても実際の映像にしてしまえば金色の縁だったり、黒以外の色があるはずです。あるいは、テレビといったとき、小説では画面のみを扱うことができますが、映像ではテレビの縁、たいがいは黒がグレーだと思いますが、それも内包しなくてはいけない。小説では描いたものだけが存在します。一方映像では、意図しない色を排すといっても限度があります。
もちろん小説のほうが映像より優れているといっているわけではありませんが、そういった違い、特性があることが間違いありません。

最後にタイトルのこと

この物語を読むたびに思うことがあります。
タイトルにもなっている「七人の可愛そうな大人」とは誰のことなのでしょうか? 可哀そうではなくて、可愛そう。哀れに思うことができるではなくて、愛しく思うことができる。
読むたびに指折り数えてみるのですが、なかなかうまくいきません。あるときは5人しか浮かばないし、あるときは8人も浮かんできます。7人ちょうど思い浮かべることができたときも、ときにより別の人物のことだなと思ったりします。
よい物語は、読むたびに新しい発見があるもの。これでいいんだと思います。


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