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カテゴリー「映画・演劇」の記事一覧

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世界は優しいのか? 残酷なのか-アニメ「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」いずれにせよ世界は美しい

「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を鑑賞してきました。8月18日から公開のアニメ版です。

「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」
総監督:新房昭之
監 督:竹内宣之
脚 本:大根仁
出 演:広瀬すず、菅田将暉
あらすじ
夏休み。花火大会の日。中学生の典道(CV:菅田将暉)たちは「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか? 平べったいのか?」と盛り上がり、海岸から離れた灯台に確かめにいく約束をする。プールでの競争でなずな(CV:広瀬すず)は、勝ったほうを花火大会に誘った。

よくも悪くも、1995年の実写版とは別の作品になっていました。序盤こそ昭和の香り残る実写版を現代に置き換えた程度ですが、中盤、急速にオリジナルドラマになります。

どうやら別の物語らしい

実写版では観客の想像任せにし描かれなかったところやつじつまの面で引っかかりがちなところが解消されていました。それに伴って、ストーリーが膨らまされて、エンターテイメント性が高くなっているように思いました。
ただ実写版にあった胸を締めるような切なさはありませんでした。エンタメ化の代償か、ヒロイズムが前面に出ていて、少女がやや少年の成長のために都合よく描かれた印象。実写版の「次に会うのは、夏休みが終わってからだね」という台詞がとても好きだったのですが、アニメ版ではそこに込められた想いの美しさ、残酷さを感じることはできませんでした。
実写版からの変化は、プロデューサーが川村元気氏ということもあり、「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」を描いていた新海監督が「君の名は。」を描いたことに似たものを感じました。

岩井監督を離れ、新房監督らしい映像

映像は美しかったです。パンフレットには「実写をアニメにするのだから、アニメでしかできない表現をしたい」といった旨の発言があり、それは新房監督により着実に実行されていました。いかにもシャフトらしいケレン味のある映像は、独特のリアリズムを生み出していて、素晴らしかったです。「まどかマギガ」や「化物語」で見たことあるような表現が散見していますが、見ごたえがありました。

印象的な音楽は、1995年版からの、、、

あと音楽について。アニメ版では劇中歌が何曲か出てきます。CMでも使われている「打上花火」や松田聖子のカバー曲など、どれも良い曲でした。しかし、「Forever Friend」には敵わない。曲そのもの良し悪しではなく、劇中歌としての存在感、効果は圧倒的でした。岩井俊二監督は、映像美だけではなく、音楽もいいんだよなぁと改めて実感しました。

おなじ物語でべつの結論

実写版を観たときは「少女は少年を置き去りにして女になる。世界は美しくて、残酷だ」と感じたのですが、アニメ版では「少年は少女と手を取り合い進んでいく。世界は、優しい」といった印象で、やはり別の物語を観ているようでした。
実写版がなく、フルオリジナル作品だったら、また評価が違ったんだろうなぁ、というのが率直な感想です。
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それを呪いと呼びたくば、呼べ-「春、忍び難きを」(作 斉藤憐)を鑑賞

周南市民劇場にて、劇団俳優座の「春、忍び難きを」(斉藤憐)を観劇してきました。

劇団俳優座「春、忍び難きを」
作:斉藤憐  演出:佐藤信・眞鍋卓嗣
あらすじ:敗戦の年。信州にある望月家は、庄屋であり、名士であった。そこに食糧難などを理由に、戦前、戦中は、農村を捨てた男たちが戻ってきていた。これまでは大地主であった望月家だが、農地改革など時代の波は迫ってきており、明るい未来を感じられる状況ではなかった。しかし、農村はただ農作物を生産するのみ。押し寄せるものに流され、あるいは抗おうとしている男たちのすぐ横で、農村の女たちは黙々と働いていた――。

「てめぇが毎日食っている米は誰が作っているんだ!」と斉藤憐は思った

「春、忍び難きを」を鑑賞して、私は「第一次産業のノブレス・オブリージュ」とでもいうようなものを感じました。「ノブレス・オブリージュ」とは、本来、貴族や王族が戦火など危機の際には我が身を捨て働くなどの、特権や高貴な身分に伴う義務のことです。
望月家では、家長の多聞こそ庄屋然として振舞っていますが、嫁のサヨ、出戻りの姉トメ、戦地より未帰還の次男の嫁よし江は農村の女らしく働いています。この3人は、一度は農村を捨てた男たちに何かと米やら豆やらを持たせてやります。食糧難の世の中で、庄屋として多少の備蓄はあるにしても、けして余裕はないはずです。血が繋がっているからもあるでしょうが、私はそこにもっと別のものをみました。農作物は食べられるために作られています。それを一番よく知っているのが、農村の女たちなんだろうなと思いました。
3人の農村の女たちは一度として、望月の家を離れません。特によし江には何度か離れる機会が訪れます。しかし離れない。家に縛られているようでもあり、呪いのようにもみえます。しかし、私は思うわけです。それを呪いと呼びたくば呼べ。井上薫さん演じるよし江は「東京には土がねえもの」と言います。愚直で美しい彼女は土に魅せられていて、私も彼女がみているものに魅せられました。

人間の厚みが物語の厚み

斎藤憐さんは日本でも屈指の劇作家でした。「春、忍び難きを」においては、徹底した自然主義、構成の巧みさ、人間造形の厚さに圧倒されました。どの人物も単純でなく構成されているのですが、私が特に惹かれたのはよし江と三郎の関係と人物造形です。
2人の関係に、恋愛を感じませんでした。惚れたはれたではなく、お互いに目的を達成するためのパートナーを求めているだけのように映り、情熱的でドライな関係にみえました。けして記号的ではない、他ではちょっとみられない関係です。
三郎は持って生まれたものに反発しながらも離れられない、血に縛られている様子でした。自己矛盾を起こしていたりもするのですが、人物として性格が破綻しているわけではなく、リアリティがありました。劇作家・斉藤憐のすごさを再認識しました。

題名「春、忍び難きを」について

それからタイトルについて。「春、忍び難きを」ですが、明らかに文章の途中です。劇中で玉音放送が用いられていることもあり、「春、忍び難きを」忍び、耐え難きを耐え、までは容易に想像できますが、最後の言葉が思い浮かびません。忍んで、耐えて、春に芽吹いたものが何でしょうか? 春を目前に幕は閉まります。

いかにも新劇らしい新劇でしたが、とても面白かったです。
(井上薫さんの演技がツボにきました)

周南市民劇場は会員制の演劇鑑賞会です。次回の例会は、10月10日(火)11日(水)で、青年座の「ブンナよ、木からおりてこい」(作 水上勉)。何度も再演されている名作です。
興味のある方は、周南市民劇場事務局(0834-21-7097 火~土 10:00~19:00)までお問合せください。

周南市民劇場-7月例会は「春、忍び難き」です

7月24日(月)、25日(火)に、周南市文化会館で、周南市民劇場の例会が予定されています。
今回の例会は「春、忍び難きを」(劇団俳優座)です。
俳優座は、日本を代表する老舗の劇団です。何作か観劇させていただいたことがあるのですが、どの作品もしっかりとした新劇の芝居で、ずっしりとした感情表現が印象的でした。

今回の上演作品は「春、忍び難きを」。終戦後、GHQの農地改革などを受けて激動していた農村部を舞台にしています。そこで暮らす人々、特に女性たちの物語で、社会の流転の激しさに切り込むと同時に、人間のたくましさ、生命讃歌の快作と伺っています。

斉藤憐さんの作品ということもあって、とても楽しみにしています。
斉藤憐さんは、井上ひさしや別役実と共に日本劇作家協会旗揚げに携わっていて、以前、ある劇作家さんから「劇作技術をすれば日本で一番の人」と称されるほどの方です。「春、忍び難きを」も、2005年の紀伊國屋演劇賞を受賞しています。

以前もご説明したかと思いますが、市民劇場というのは会員制の演劇鑑賞会です。毎月会費を収めて、平均2か月に一回、演劇を鑑賞できます。
演劇鑑賞会という響きは、もしかするとドレスコードや鑑賞後の感想会などを連想させるかもしれませんが、そういった面倒なことはありません。純粋に演劇を鑑賞するための会です。
俳優座や青年座など、伝統のある新劇系の劇団の上演が主です。心境を丁寧に描く、ゆっくりとした舞台が多くて、小劇場を発展させたようなスピード感のある舞台は珍しいです。
今風の舞台を味わう機会にはなりにくいですが、それでも周南市民劇場で舞台を見るメリットはあります。

・定期的に演劇を鑑賞する機会になる

 山口県内では演劇はまれにしか上演されません。鑑賞しようと思ったら、広島や福岡まで行かないといけません。不慣れな土地での観劇は何かと面倒です。公共交通機関を使うなら時刻調べたりとか色々。演劇を見に行きたい、行きたいと思いながらも、行けないまま一年を過ごしてしまいがちです。(私だけでしょうか?)
 その点、市民劇場なら平均2か月に一回上演があります。会場も近場で、夜公演も多いので、仕事終わりに駆けつけることもできます。

・普段は観ない演劇が鑑賞できる

 私は小劇場が好きです。100人以下のホールで、役者の息遣いや体温が伝わってくる距離が好きです。
 周南市民劇場で鑑賞できる作品は、大ホール用に作られた新劇系の作品が主です。自分でチケットを選んでいたらまず観ない劇団ばかりです。
 なので思いがけない出会いがよくあります。好みじゃないと勝手に判断していただけで、新劇も意外と面白いなぁと思わせてくれる作品に出会うことがあります。
 合わないなぁと思うこともありますが、自分からは進んで観ない作品を鑑賞することで見識が広がるというか、より深く演劇を知ることができるようにも思います。シェイクスピアをはじめ古典の上演も多いので、見ておきたいと思いながらも鑑賞の機会を先延ばしにしていた作品を観る機会にもなります。
(ちなみに鑑賞する作品は、年に一度アンケートがあって、それをもとに決定されるそうです。まったく自分の意志が反映されないわけではありませんので、いちおう)

・安い(かなり重要!)

 演劇のチケットは高いです。プロの芝居が2,000~3,000円で観れるとなると、安い! と感じます。5,000円くらいは当たり前だし、劇場によってはS席10,000円とか掛かります、映画が1,500円程度で観られることを考えるとかなり高額です。そのうえ、県外で鑑賞するとなると移動費もかかります。さらに足を伸ばして、大阪や東京、福岡や広島でもソワレ(夜の公演)だと宿泊費までかかってきます。
 チケット代だけでみると、大差はありませんが、劇場が近くにあるだけで、そのほかに掛かる費用がずいぶん安くあがります。

周南市民劇場は、会員制の演劇鑑賞会です。興味のある方は、まず事務局(0834-21-7097 火~土 10:00~19:00)までご連絡ください。入会方法など詳しいことはそこでご確認いただけると幸せます。

演劇の歴史-戦後2大ブームのあたり

さて、以前の続きです。
明治維新以降の日本の演劇史についてざっくりとまとめてみます。
戦争により地下化、あるいは慰安になっていた演劇ですが、終戦を経て、活発になります。
しばらくはもとの新劇を取り戻す活動だったのではないかと思います。
1920年代からプロレタリア運動との結びつきを強くし、1941年代には日本移動演劇連盟の結成、いわゆる戦志高揚、慰問芝居です。終戦で一区切りつくまで、演劇は、政治的主義・主張と身近なところにありました。
次に大きく演劇が動くのが、1970年代、「アングラ」ブームです。

衝動と反体制-「アングラ」ブーム

「もはや戦後ではない」が流行語になったのは1950年代後半で、1970年代になれば高度経済成長も終盤。戦後復興を経て、日本が急速に豊かになっていった時代です。
明治維新以降、日本演劇を支配していた新劇にようやく反論が生まれます。
「新劇は論理で説明できる感情を大切にしすぎている。人間は、もっと、衝動的なものではないのだろうか?」
アングラ演劇を代表する人物といえば、唐十郎や寺山修司、黒テントなどでしょうか。衝動を重視したほか、海外から新劇を輸入したことで追いやられていた土俗的なものを舞台に取り込みました。根底には反政府、反社会的な要素も濃く、また実験的な舞台も多くあり、当時のことがいまでも伝説として語り継がれています。

一世を風靡したアングラ演劇ですが、陰りはすぐに見えてきます。衝動というものはとても舞台で扱いにくかったのです。世俗に広まるにつれ、衝撃的であることが第一になり、役の衝動と役者の衝動を取り違えて、謝った理解が広まっていきました。

それに待ったをかけて、新しいスタイルで流行を作ったのが「小劇場」ブームでした。

感覚と笑い-「小劇場」ブーム

小劇場ブームを代表する人物といえば、野田秀樹、鴻上尚二、つかこうへい、三谷幸喜といったところでしょうか。
アングラブームに対して「衝動はちょっとやりすぎじゃない? でも感情だけじゃなくて、うまく説明できない感覚っていうのも重要だよね」くらいのライトな反論をします。アングラの実験的な舞台で観客を脅えさせた反動なのか、笑いに重点を置いた作品も多数みられます。ちなみに時代はバブルの頃です。

調べてみると、その後も「静かな演劇」など小劇場ブームは続くのですが、インターネットの台頭のせいでしょうか? それまでのブームほどの勢いはないように思います。

以下、まとめです。

しかし新劇からは逃れられない

明治維新により海外から輸入された新劇という手法ですが、これまでの日本の演劇とはおおきく異なるものでした。
・リアリズムの演技、演出論
・感情を重視した演技、演出論
・演出家の存在

部分的な反論は何度もされてきました。
人間を支配するのは感情だけではなく、衝動や感覚
にもっと重点を置いてもいいのではないかと生まれたのが「アングラ」演劇や「小劇場ブーム」です。感情を大切にするあまり、台詞を振り回していて、言葉が観客に伝わらなくなっていると批判し、独特の発声法を作り上げたのが「劇団四季」です。
部分的な反論は何度もされてきましたが、演じるうえで役の感情が重要であること、カリカチュアされた、外連味の溢れる芝居ではなく、日常生活の動作の模倣が演技の基礎としてあること。新劇の根本部分が覆されたことがありません。

100年も前に始まった演劇のムーブメントがいまでもスタンダートとして居座っていることにわたしは驚きを隠せないのです。新劇って、すげぇ。今後、演劇が細々とやっていくしかない状況に追い込まれつつあるのはみえていますが、それでも新劇という手法は揺るがないのではないかと思っているわけです。

さて、閑話休題。

長々と日本の演劇の歴史をざっとさらってみたわけですが、いま、これまでの日本の演劇の流れをまったく踏まえないところにあるブームが起こっているのをご存知でしょうか? 次はそこについて記述してみたいと思います。

交わりながらも共存は選ばない-映画「借り暮らしのアリエッティ」の場合

「借り暮らしのアリエッティ」を見ました。ええ、金曜ロードショーです。

公開当時は、藤原達也が出演しているということで、声優・藤原達也を期待して観て、なんだ、わりとちょい役じゃん! となった記憶が強く、物語そのものを丁寧に鑑賞した記憶がありません。(すみません、、、)このたび改めて物語を味わって、なかなか秀でた作品だなと感じました。

「借り暮らしのアリエッティ」
監督:米林広昌
脚本:宮崎駿 丹羽圭子
原作:床下の小人たち(作:メアリー・ノートン 原題:The Borrowers)
あらすじ:小人の少女・アリエッティ(CV・志田未来)は、両親と3人で人間に見られてはいけないという掟の下、ある屋敷の床下で角砂糖などをこっそりと「借り」て、暮らしていた。あるとき、屋敷に人間の少年・翔(CV・神木隆之介)がやってくる。その夜、初めての「借り」に出かけたアリエッティだが、その姿の翔に見られてしまう……

興行収入でいうと、ジブリ歴代6位、4位「崖の上のポニョ」、5位「風立ちぬ」に次ぐ、好順位で、非宮崎駿監督作品では堂々の1位です。興行成績が映画の評価と一致するわけではありませんが、参考までに。

未知との遭遇と帰還

物語には形式というか、手法のようなものがあって、「借り暮らしのアリエッティ」は「未知との遭遇と帰還」の亜種といえます。
「未知との遭遇と帰還」とは、その名前の通りで、未知の世界(あるいは生物や文明等)と遭遇して、さまざまな経験を経て、未知からの帰還、別れて既知の世界に戻るという形式のことです。わりとジュブナイルで見られる形式ですね。よくあるパターンとしては、いじめられっ子の少年が、剣の魔法の世界に迷い込んで、その世界の勇者に憧れて、勇気を貰って、もとの世界に戻ってから、いじめっ子に立ち向かう、みたいな感じでしょうか。夢落ちも、これに分類されます。

「借り暮らしのアリエッティ」の秀でているところは、王道でありながら、視点を逆に持ってくることで新しい物語として見せること成功しているところにあります。

「借り暮らしのアリエッティ」において、主人公はアリエッティです。翔くんの視点から語られる場面の多数ありますが、彼はヒロイン(?)です。
しかし、アリエッティにとって、観客にとって未知の世界であるはずの小人が暮らす世界は、日常です。物語の開始時点が、アリエッティが初「借り」に出かける日と節目にはなっていますが、日常であることに変わりはありません。

では、誰にとって小人が暮らす世界が、未知となり得るでしょうか? そうです、翔くんをはじめとした人間たちです。
「未知との遭遇と帰還」という形式を古典的に適用したなら、人間である翔くんが、小人たちの暮らす未知の世界に紛れ込むとなります。
しかし、映画「借り暮らしのアリエッティ」では、小人であるアリエッティが、観客にとって未知の世界である小人たちで暮らしているところに、人間である翔くんが紛れ込んでくる、となっています。

「未知との遭遇と帰還」は、古くから使われている物語の手法です。いまに至るまで使われ続けているということは、それだけ優れたところがあるということです。
その優れたところをうまく利用しながら、「紛れ込む-紛れ込まれる」の視点を逆にすることで、古典的手法に新鮮さを持ち込んだ「借り暮らしのアリエッティ」の構造は見事といえるでしょう。

しかし、地味な物語

構造的に見事でありながら、「借り暮らしのアリエッティ」は、世間的にあまり評価が高くないようです。小人の世界の作り込まれ方や草原の描写などは評価されているようですが、ドキドキ、ワクワクのエンターテイメント性が欠けているという声が目立ちます。
なぜでしょうか? 大きく2つの理由があると私は考えます。

①緊迫感がない
アリエッティたちは、翔に姿を見られてしまったことで、暮らし慣れた屋敷の床下を離れることを迫られます。人間に姿を見られてはいけないという掟があり、人間に存在を気付かれてしまえば自分たちに危険が迫るかもしれないという考えからです。
しかし、観客は知っています。翔くんは温厚な人柄であり、また小人のことを家族に秘密にするだけの分別もあります。翔くんが小人たちに嫌悪感を抱き、駆除しようとしているのなら、間に合うか間に合わないかのドキドキが生まれるかもしれませんが。アリエッティの両親は、焦って引っ越しを進めていますが、そんな必要がないことを観客は知っているのです。

②悪役が緩い
第一発見者である翔くんが小人たちに友好的な代わりに、家政婦のハルさん(CV・樹木希林)が小人たちに嫌悪感をいただきます。しかし前半は、小人の存在に確信が持てず、翔に疑いの眼差しを向けるだけ。観客たちにハラハラを与えるだけの存在になっていません。
そして後半、ついに小人を見つけるのですが、捕まえて……、捕まえるだけです。(これで殺したりしていたらまったく違ったのでしょうが……。それは世界観的にアウトな気がします)
例えば、ハルさんが、屋敷の財産をかすめ取ろうとたくらんでいて、その証拠を小人に見られてしまったから、小人の駆除を急いでいる……とかならエンタメ性は増すでしょうか? しかし、これも世界観的にアウトな気がします。

いろいろと書きましたが、「借り暮らしのアリエッティ」という作品は、あれでよかったのだと思っています。多くの方が指摘しているとおり、エンタメ性が低いのは事実だと思います。しかし「借り暮らしのアリエッティ」の見所は、どきどきはらはらのエンタメではありません。小人の少女がと異世界に暮らす人間の少年が出会い、別れる物語です。

そして物語は別離で終わる

アリエッティには小人に寛容な少年の庇護のもと、共存するという選択肢もあったと思います。
でも、それは、「借り」暮らしをする小人たちにとって、文化上での滅亡を意味します。先祖から脈々と受け継がれてきた、「人間に見られてはいけないという掟」と「借りて暮らすこと」を失ってしまうのです。
人間を軽蔑する小人の少女が、少年と心を通わせ、しかし共存ではなく、自分たちの生き方を、劇中では「滅びゆく種族」と評されたりする自分たちの生き方を選択します。
その決断と別離が、この物語の魅力だとわたしは思います。

最後にタイトルの秀逸さ

さて、余談になりますが、私は「借り暮らしのアリエッティ」というタイトルはなかなか秀逸だなと思っています。単純に「借り」と「狩り」がかかっているからなんですが。
ちなみに原作の原題は「The Borrowers」。直訳すると「借りるものたち」といったところでしょうか。狩りは「Hunt」ですので、原題は「借り」と「狩り」のかかりはなかったようです。映画の海外公開時タイトルも「The Borrower Arrietty」「The Secret World of Arrietty」です。
「借りって楽しいね」の楽しさは、きっと、日本語版でしか分からないのでしょう。

ちなみに米林広昌監督の新作「メアリと魔女の花」が7月8日(土)から公開です。昨日ですね。……来週だと思っていました。見に行かなくては。

山口県周南市や下松市の文系ねっとわーくを構築すべき活動中! ここでは演劇や映画、小説の感想、近隣の文系イベント情報を紹介します。

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