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カテゴリー「小説・漫画」の記事一覧

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出会わせない作家が出会わせるとき-小説「言の葉の庭」

「君の名は」で一躍有名になった新海誠監督。それ以前の作品も、見る価値のある作品ばかりです。好んで、繰り返し観ていました。ノベライズも何冊か読んでいましたが、小説「言の葉の庭」を読んで、本人が書いた小説を読んだことはなかったなと気づきました。

小説「言の葉の庭」(新海誠)

あらすじ:靴職人を志す少年・秋月孝雄と“上手く歩けなくなった”女性・雪野百香里は雨の降る日に出会った。二人は雨に日に逢瀬を重ねていく……。

小説「言の葉の庭」は、映画「言の葉の庭」のノベライズです。執筆期間は映画の上映期間中。約45分の短編映画が先にあって、そこにさまざまな物語が加えられて、長編小説になっています。
追加されたエピソードはどれも後から付け足したようには思えませんでした。映画では横切るようしか出てこなかった人物や、まったく登場しなかった人物さえ、秋月くんや雪野さん(あるいは読者)の心をざわつかせるためには必須のように感じました。映画では分からななかったこと、描かれていなかった部分を補足するような形になっていますが、蛇足には陥っておらず、映画の余白を埋めながら、新しい余白が生まれていました。読後感も、物語のその後を想像させるもので、とても心地よかったです。

出会わせない物語

新海誠さんは、「出会わせない監督」と評されることがあります。
その通りだと思います。「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、序盤で主人公とヒロインの繋がりを描いて、終盤あるいは終焉まで二人は出会いません。「君の名は」でも、あれでも初期からの新海ファンは「いままでの新海監督だったら、すれ違って終わりだったのに……」と驚きの声をあげていました。
強い繋がりを持った二人が、出会わないで、出会わないまま終わるのが、新海ワールドといっても過言ではありませんでした。
「言の葉の庭」もどちらかといえば出会わない物語ですが、従来の作品群とはちょっと違うように感じました。
二人は日常をともに過ごしたりはしませんが、限定された場所で幾度となく出会います。そして、「言の葉の庭」という物語は、再会を想像させるところで幕を閉じます。小説「言の葉の庭」を読んで強くそう思ったのですが、映画のほうも再会を否定する内容にはなっていません。
「言の葉の庭」以前の作品は別れにより成長を感じさせてくれるものが多いです。(それはそれでいい幕引きなのですが)「言の葉の庭」以前と以降で、新海誠さんのテーマというか、作家性に変化を感じました。物語としてはありふれたかたちなのかもしれませんが、出会わないことを描き続けたうえで発展したものは、それまでに積み重ねたものという点で一線を画していると思います。(それはより大衆化して、「君の名は」に繋がるものだと感じました)

物語の視点

映画同様に風景描写が素晴らしく、都会の、私の知らない光景のはずなのに、目の前に浮かんでくるようでした。
それから、視点が、本職がアニメーション監督だからでしょうか、小説の作法には乗っ取っていませんでした。
小説を書くうえで、視点はとても重要なものとして考えられています。誰の目から語られている物語か、ということです。(それを逆手にとった、信用できない語り部という手法もありますが、今回は関係ありませんので、別の機会に)
新海誠さんの小説「言の葉の庭」では、一人称のような三人称で、現代小説ではあまりよい方法とされていない神の視点に近いような、それとも違う、独特の視点で描かれていました。
基本は三人称単視点なんですが、ふいに一人称になったり、かと思えば、三人称でも俯瞰しか視点になったり。映画のカット割りのようでもありましたが、かなり心中に踏み込んでいました。いちばん似ているのは、漫画だと思います。
漫画は多くの場合、一人称的なのですが、複数の人物の心中吐露が一つのコマで同時に描かれることも珍しくありません。いくつもの視点を行ったり来たり、ときに同時に描いたりします。映画や演劇も、小説に比べ、視点の自由はありますが、漫画ほどではありません。
視点の切り替わり方、心中に踏み込んでは、俯瞰に移行するさまなど、なるほど、漫画的な自在さがありました。ほかの小説では味わえない読み心地で、とても面白かったです。

調べてみると、新海誠さんは、他の映像作品も、自身でノベライズしたものがあるみたいです。そちらもぜひ読んでみたいと思いました。
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結論を描いている以上、魅せるべきは過程にしかない-いちご100%の続編の連作が始まる

まっすぐ歩かないから まっすぐ歩けないから
僕が歩いたあとは 曲がりくねった迷路
迷路 迷路 迷路 迷路
「迷路」(ザ・ハイロウズ)

間違いなくいまの私に影響を与えている作品の続編が「少年ジャンプGIGA」にて連載がはじまりました。

「いちご100% East Side Story」(河下水希)

あらすじ:中間が中間古書店で店番をしている主人公・仲間は、ある日、客としてきた、まるで「野いちごのような」女子大学生に一目ぼれをする。顔見知りになったころ、ふとしたことから女子大生は「中間」のことを「真中」と呼び、涙を浮かべ、店を飛び出して行ってしまう、、、

2002~2005年代にかけて週刊少年ジャンプで連載された「いちご100%」の続編となる物語です。「いちご100%」は、主人公・真中淳平の将来の夢と恋愛にうだうだと悩み続ける物語です。そういってしまえば、それまでですが、ドタバタラブコメをやっている一方で、真中が将来の夢や目の前の恋愛に悩むさまは等身大で、胸を打つものがありました。
あの物語の続編。正確には「いちご100%」本編の途中、高校を卒業してから、最終話(卒業から4年後)で一同が再会する間までの物語のようです。

全何話の予定しているのか、分かりませんが、第1話を読んで、すこし首を捻る。導入としてはあまりにもあっさりしていて、前作に思い入れのない人には、絵がきれいなだけのよくある作品に見えるのではないでしょうか。
前作を知っていて、東城における真中の占める大きさを知っていれば、ああ、そうだよね、すぐに吹っ切れるわけじゃないよねと、自身の体験を思い返しながら読むことができました。

前述のとおり、高校卒業から再開までの間を埋める物語です。パラレルワールドではなく、きれいに繋がるためには、東城が ①作家として飛躍すること ②真中への心中を整理することが必須事項となるかと思います。
結論はすでに決まっています。魅せるべきは、結論に至るきっかけ・理由と心中描写。少女漫画と少年漫画のハイブリット漫画かである河下水希さんがどう描くのか、とても楽しみです。

探しながら紡がれる物語-「ギンイロノウタ」もクレイジー

覚醒されたのは失くしてた傷跡
この身体が奪われてく
「侵食」(L'Arc~en~Ciel)

第155回芥川賞を受賞された村田沙耶香さん。作家仲間たちからは「クレイジー沙耶香」と呼ばれているそうです。語呂はいいですが、あまり捻りのある呼び名ではありません。きっと、率直な感想なんだろうなと思いました。

さて、「ギンイロノウタ」です。

あらすじ:極端に臆病な少女・土屋有里は、周囲におびえながら生きている。文房具屋で買った指し棒、銀色のステッキに救いを求めます。押し入れに自分だけの秘密の空間を作りあげていきますが、ある日……。

同時に収録されている「ひかりのあしおと」によく似た物語です。ただ長さが倍くらいある分、説明もしっかりしていました。なぜ有里が臆病におびえながら生きているのか、自分の価値をいっそう低くも積もるようになったのか。読み解くことができました。
うまく育てなかった少女が、藁のような支えを見つけたけど、それも奪われてしまって、燻りながら、歪みながら、大きくなっていく。
読み進めながら、救いはあるのだろうか? そればかりが気になりました。救いがあってほしいと願わずにはいられませんでした。

探しながら紡がれる物語

作風としてはまったく違うのですが、伊藤計劃さんを連想しました。伊藤計劃さんは2009年に若くして亡くなったSF作家さんで、代表作の「虐殺器官」と「ハーモニー」が劇場アニメとして公開され話題になりました。「虐殺器官」はアメリカで実写化映画の予定もあるそうです。
どこで読んだのか、定かでないのですが、伊藤計劃さんは、ある種の実験として小説を書いていたそうです。近未来の世界を作り上げて、その中で事件を起こり、自分の納得できる結論を探しながら物語を紡ぐ。いつもハッピーエンドにたどり着けず、今回も失敗か……とうなだれるそうですが。
村田沙耶香さんも同じような感覚で書いているのかなと思いました。
現代社会で、うまく育てなかった少女を設定して、少女はなんとかまともであろうと、自分で自分をまっとうに育てようとします。
伊藤計劃さんがSFで、世界の実験をしているように、村田沙耶香さんは人物を創造して、実験をしているような印象を抱きました。どんな結論になるのか、自分でも分からないまま、物語を書いているのだとしたら……。さすが「クレイジー沙耶香」です。
伝えたいことがあるから物語を書くのではなくて、伝えることを探しながら物語を書く。「ひかりのあしおと」も「ギンイロノウタ」も、そのプロセスを見せられたような気がします。
もしかすると、その最初の集大成が芥川賞受賞作「コンビニ人間」なのかなと思うと、ますます読みたくなりました。

育ち間違えたとき、誰が育て直してくれるというのか-「ひかりのあしおと」に救いを探す

今まで無くしたものと これから君が見るもの
すべて取り替えたならば 変われるのかな 変われるのかな
「光のロック」(サンボマスター)
「ギンイロノウタ」(村田沙耶香)を読みました。
ふいに「コンビニ人間」が読みたくなって、書店に行きました。「コンビニ人間」は第155回芥川賞受賞作品です。つい最近の受賞作なので、品ぞろえているだろうと思っていたのですが、ありませんでした。仕方ないので、なんとなく気になった本を買いました。
家に帰って、読みはじめてから気づいたのですが、「コンビニ人間」と同じ著者でした。それと思わずに買ったというのは、なにか宿命なのようなものを感じます。帯に「祝・芥川賞」と書いてあるのに気づかなかったのは、さすがに自分でもどうかと思いますが。

さて、「ギンイロノウタ」は、表題作他「ひかりのあしおと」の2編を収録しています。どちらの物語にも共通するファクターがあり、1冊の本に収められるのがふさわしいなと思いました。

「ひかりのあしおと」(村田沙耶香)
あらすじ:幼少期のエピソードから光におびえながら暮らしている女子大生・古島誉は、いびつなレンアイ関係に救いを求めながら、母とは思えない母と日々暮らし、あるとき、”そこが陽だまりかと錯覚する様”な男子・芹沢蛍と出会う……。

あらすじだけ書き出してしまえば、ボーイ・ミーツ・ガール、まるで恋愛小説です。確かにそういった一面もあります。しかし、本題は、うまく育つことのできなかった少女のもがき様のように読みました。生き様ではなく、もがき様。

大人たちは育ててくれない

この物語は、情けないというか、大人げない大人はたくさん出てきます。悪意はないのでしょうが、誰も自分のことで精いっぱいです。そんな大人たちに囲まれて、時には利用されて、誉はうまく育つことができませんでした。うまく育つことができなかったどころか、何かに追い詰められています。軌道を修正しようとするけど、上手くいかない。もがけば、もがくほど、ますますおかしくなっていきます。ただ救いを求めているだけのに、どんどんずれていく。
そのさまが、生々しく、奇妙で、妙に愛らしく感じました。
だって、周りの情けない大人たちに比べて、歪みながらもまっとうであろうとしている誉は、どんなにずれていても健気に感じました。誉もまた「世界に×をつけないために自分に×をつけた」少女だったのかもしません。

はたして救われたのか

前述のとおり、この小説は、ボーイ・ミーツ・ガール、光をおびえる少女・誉と””そこが陽だまりかと錯覚する様な”少年・蛍の恋愛ものとして読むこともできます。
これまでの歪みから救ってくれるかと思いきや、蛍とのやりとりに救われた誉はますます歪んでしまいます。
色々と経て、誉は光へのおびえを克服します。一見、ハッピーエンドです。でも、私には、また新たな歪みのはじまりに思えました。それでも救いがあったことが嬉しくて、新たな歪みのはじまりでも健気な誉が報われたのなら、それでいいやと頭から毛布をかぶりたくなりました。
とても怖い物語でした。

表題作「ギンイロノウタ」については、次に繰り越し。村田沙耶香さんという作家さんにも興味が湧いてますし、そのへんとまとめて更新予定です。

苦しみこそが楽しみだ-「大正箱娘」を読み自らの業を思う

何故に狂おしく踊る舞姫よ
燃える時代の風 忘れさせるように
そして俺たちは飲み込まれてゆく
どす黒い穴の向こう側へ
 「舞姫」(THE BACK HORN)

さて、前回は「紅玉いづき」という作家さんについて紹介しました。
作家・紅玉いづきはライトノベルでデビューした

今回はその著作 「大正箱娘 新人記者と謎解き姫」について、紹介しまたいと思います。

「大正箱娘 新人記者と謎解き姫」(紅玉いづき)
あらすじ:新米新聞記者・英田紺は、ある事件に出くわし、悩んでいるところ、上司の紹介で、神楽坂にある箱屋敷と呼ばれる館を訪ねた。そこで箱娘・回向院うららと出会う。箱娘は、どんな箱を開けることができ、また閉じることも……。秘密や想いの詰まった箱と、女の自由を巡る物語。

ステロタイプからのギャップ

序盤で、新人記者・英田紺と箱娘・回向院うららの出会いのシーンがあります。だけど、うららの容姿のステロタイプなこと! “視線をあげていけば、帯よりも先に長い黒い髪があった。”“娘の肌は白く、まぶたには青い血管が浮いている。唇ばかりが、紅でも引いたように赤い”“現れたのは、真っ黒な瞳だった。大きい、と思った。”などなど。ありとあらゆる色を使って、鮮やかというよりはややグロテスクに、美少女を描き出しているのはさすがと言えますが、けっきょく描き出されたのは、長い黒い髪で、肌が白くて、唇は赤々と、眼の大きい、ステロタイプな美少女でした。俗世間飲まれたか、量産型ファンタジーに逆らえなかったか、と憤りました。
ここで本を閉じてもよかったのですが、「ミミズクと夜の王」を、「ガーデン・ロスト」を書いた紅玉いづきさんだ、このまま終わるはずはないと読み進めることにしました。
すると、すぐに期待に応えてくれました。
美少女は「箱娘」でした。箱入り娘ではなくて。ステロタイプな外見をしながら、中身がいっぷう変わっているから、そのギャップがキャラクターの魅力になっている。ステロタイプに描かれていると思ったのも、きっと、作者の手のひらの上だったのでしょう。

そして自らの業を思う

第二話「今際女優」で、刺さる台詞がありました。「今際女優」は、死に際の見事な女優・出水エチカと自殺した劇作家を巡る物語です。
私は演劇を作るうえで、役者の苦しみこそが観客を楽しませると考えています。稽古中の苦しみが、舞台のうえでの苦しみが、観客のフラストレーションと交わって、昇華することが理想の演劇だと信じています。役者が演じることを楽しんでる間は、もちろん演じることを楽しんでないといけないと思うんだけど、それだけしかないのなら、きっと、つまらない。大衆の表皮を撫でるだけの凡作になるのだろうと思います。
演劇っていうのは、業ですよ。生きていくのに必要のないもののはずなのに、それがないと生きていけない人もいる。

さて、話題は変わりますが、作中の時代背景として触れられています「平塚らいてう」以来のウーマンリブ運動を知るたびに思うことがあります。不自由を選ぶ自由はないんだろうか。首を傾げたくなることがあります。当事者ではない私が言うのはよくないのかもしれませんが。でも個々の権利を認めるということは、不自由でありたいという権利も認めなくてはいけないのではないでしょうか? 

応えは、続刊にあるかもしれません。そう、「大正箱娘 見習い記者と謎解き姫」は、すでに続刊が発行されています。知らなかった、というか「紅玉いづき」さん、ちょっと目を離した隙に多数発行しているじゃないですか……。
読まなければいけない本が増えました。読みたいが読まねばになる。本読みとしての業です。

山口県周南市や下松市の文系ねっとわーくを構築すべき活動中! ここでは演劇や映画、小説の感想、近隣の文系イベント情報を紹介します。

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