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カテゴリー「アイデア・ぼやき」の記事一覧

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見立てが通じなくなる日が来てしまうのだろうか-勝手に危惧する

先日、とはいっても、もう10日ちかくも前、GW中のことです。一人芝居を観劇してきました。一人の役者が、いくつものキャラクターを演じるものでした。

上演にさきがけて、前説がありました。
スタッフらしき女性が、舞台の端のほうに出てきます。人前にでるのが苦手なのか、おどおどを通り越して、挙動不審です。
女性は、落ち着かない様子で、上演前の説明をはじめます。
携帯電話は電源を切るか、マナーモードにしておくこと。おしゃべりはいけないが、面白いと思ったら、笑うこと。最初はおどおどとしていた女性も、次第に落ち着いてきたようでした。挙動不審は相変わらずでしたが。最後に、拍手の練習をさせられました。
「拍手は大きい音で、たくさんしてください。役者が、気持ちよくなります」
こんなふうに言われたら、芝居に慣れていない人でも薄々気づくのではないでしょうか。そうです、前説の時点ですでに芝居は始まっていて、一人芝居をする役者がスタッフを演じていました。BGMが大きくなり、役者が観客の目の前で、いかにもスタッフらしいシャツを着替え、場面が移り変わっていきました……。

役者が巧みで、一人芝居は見ごたえのあるものでした。
感想はいろいろとあるのですが、いま思い返してみると、あの一人芝居を演劇をまったく見たことがない人が見たとしたらどうなのだろうかと、ふと気になりました。

一人芝居とは

一人芝居とは、その名の通り、出演者が一人の芝居のことです。
落語のように一人の役者が複数の役を演じることもありますが、多くの場合は、役者はひとつの役しか演じません。会話はありますが、相手役はいません。つまり、透明人間を相手に演じてみせることになります。
視線のやり方、間の取り方など、なかなか技術が必要です。一流の役者の一人芝居は、いない相手がまるでそこにいるように感じられます。いわば匠の技で、それを生で見ることができただけでも満足できるものです。

しかし、透明人間を相手に演技する一人芝居という手法は、演劇をまったく見たことがない人にも通用するのでしょうか。
一人芝居に限った話ではありません。演劇では、見立てやパントマイムがよく行われます。

見立てとは、いちばん分かりやすいのは落語でしょうか。扇子が箸になり蕎麦を食べたり、煙管になって一服したり。演劇では見立てを活用した舞台装置がよく使われます。写実的に作り込むのではなく、例えば、モノトーンな台が置かれているだけの抽象的な空間です。舞台装置そのものを変えることなく、照明の変化などで場面転換をします。
パントマイムは、いうまでもありませんね。有名なものでは、ガラスやロープなど。その場にないものを身体表現で見せてしまう手法のことです。
これらの手法は、演劇的素養のまったくない人には分かってもらえないのではないかとふと思ったのです。

見立てはいつまで通じるのか

現代社会において、物語を一番目にするのはテレビやパソコンでしょう。そこで流されているのはドラマや映画です。
ドラマや映画には、一人芝居やパントマイム、見立ての手法はありません。別の場面に切り替わりときは、別のロケ地で撮影します。ウルトラマンが変身・巨大化するときも、ちゃんとミニチュアの街を用意して、見えないものを視聴者に想像・理解してもらうことはありません。
いずれ見立てといった手法は通用しなくなってしまうかもしれません。
私が、こんな危惧をしているのは、まだ高校生だった頃。友人を誘い、某ロックバンドのライブを見に行きました。ライブのクライマックスに、ギター破壊のパフォーマンスを見ることができました。私は「生で見るのははじめてだぜ」とほくほくした気持ちになっていた増したが、帰り道、友人は不思議そうな顔をしていました。理由を聞いてみると「すごく演奏がうまいように思ったけど、プロからしたら納得できる演奏じゃなかったのかしら」。なんと友人は、自分の演奏に満足できなかったからライブの最後に楽器を破壊したと理解したのです。「あれは伝統芸なんだよ」と説明はしませんでした。友人はきっと誤解したままです。でもそれでいいんです。だって、何か面白いから。

本筋からそれてしまいましたが、伝統芸であるギター破壊が普段はロックミュージックをまったく聞かない友人に理解されなかったように、テレビドラマや映画で純粋培養された世代には落語・演劇的見立てが通用しないではないでしょうか。
扇子で蕎麦を食べる落語家を見て、あれは何をやってるんだろうか、手違いで本物の蕎麦が用意できなかったんだろうかと失敗と思われてしまうかもしれません。なんと恐ろしい。いずれ通用しなくなるではなく、すでに理解できない人が存在するかもしれません。

とくに地方では、本物を生で見る機会が乏しいです。文化的背景が失われてしまったがために都会で通用する本物が地方では通用しない。そんな事態を避けるためにも、面白そうなイベントをかぎつけて、広くに知らせなくてはいけない。過去から連なる現代を生きるものの果たすべき務めだと思いました。
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はたして将棋は物語に向いているか

先日、映画「3月のライオン」を見ながら、将棋という競技は、あんがい物語の題材に適しているのではないのかと思ったので、すこしまとめてみたいと思います。

野球型とサッカー型

まずスポーツものは大きく2種類に分けることができると思っています。スポーツそのものの特徴ではなくて、漫画や小説など物語として描こうとしたときの構造の話です。

○野球型

・1対1の連続

 球技はほとんどの場合、ボールのある位置が物語の中心になります。野球の場合はピッチャー対バッターの、いわば一騎打ちが物語の基点となります。それまでの展開に関係なく、たびたび基点に戻り、一騎打ちから物語が再開されます。2ストライクからのヒット、追い込まれてからの逆転も当たり前というのも描きやすいポイントかもしれません。
 ちなみにチーム・仲間たちは、ピッチャーが打たれたとき、つまり負けたときにフォローする存在として登場します。打たれてしまったけど、好守備によりアウトを取ることができた、とか。あるいは、出塁者したとき、孤島のような塁からホームに自分をつないでくれる存在として登場します。

・ポジション・打順から導き出されるキャラクター

 野球はポジションだけでキャラクターがある程度イメージできるようになっています。例えば4番ファーストだと、守備よりもバッティングで活躍するキャラクターだなとか、1番センターだと俊足だなとか。1チームを構成するだけでも9人、試合になれば最低18人は登場します。全員をこまかく描くのは大変です。主要なキャラクターは丁寧に描くにしても、その他のキャラクターはポジションで説明することで、効率的に物語を進めることができます。どんなチームなのかは、主要なキャラクターの能力に準じて設定されると思います。

・一打逆転があり得る

 9回裏10点差からでも逆転が可能です。極端な話、10打者連続ホームランで大逆転できます。それをやってしまうとあり得ないと読者は引いてしまうと思いますが、例えば、3点差で負けているなんて状況。チームメイトの懸命のバッティングにより2アウト満塁、満を持して主人公の打席……なんてのはよくあるパターンではないでしょうか? 野球では最大一打で4点まで得ることができます。凡打なら負け、ホームランなら一発逆転。最後まで分かりません。

○サッカー型

・集団対集団

 フィールド全体は連動しています。野球も厳密にいえば連動しているのですが、サッカーほどではありません。サッカーの場合、ボールから離れたところでは、いい位置でパスを受ける/受けさせないためのポジション取りの争いなどが行われています。それを丁寧に描くのも面白いと思いますが、ボール=試合の流れの中心が今どうなっているのか分かりにくい状況が続きます。
 逆にボールを持っているプレイヤーの視点から考えてみます。ボールを持ったはいいが、囲まれてしまった。そこに! いつの間にかディフェンダーがオーバーラップしていた。絶妙なパスを出した。窮地を救ったものが、視点の外で行われており、極めて都合のよい展開として受け止められがちです。個にフォーカスするのではなく、俯瞰した視点で描くほうが適しているように思います。

・チームカラーから導き出されるキャラクターはぼんやりと

 もちろんサッカーにもポジションはあります。しかし野球ほど、キャラクターの個性に直結はしません。(野球の場合、守備位置×打順なのでキャラクターが見えてくるのです)サッカーは11名と野球よりも必要人数が多いのに、効率的に描く方法がありません。
 一方で、野球よりもチームの戦法から個を描いていくことはできます。「強力なフォワードがいて、堅守カウンターのチームだ」「突出したプレイヤーはいないが、運動量からくる数の利で攻めてくる」など。チームの戦術を実現するための選手が見えてきます。しかし、サッカーは集団戦です。似たような選手が複数生まれ、個を描くには至りません。

・一打逆転はあり得ない

 大差から逆転することはできます。前半0-3だったが、後半で逆転、4-3で勝利したとか。きっとハーフタイムで、「相手チームの弱点が分かった」とか監督が言って、ポジション修正かマンマークかあったのでしょう。
 ただ、競技の現実性を考えれば、後半ロスタイム突入から3点差を逆転させることができません。野球と違い、サッカーは試合時間が限られています。現実的に逆転できない領域があって、それを超えてしまえば、都合のいい展開と読者に見放されてしまいます。しかもサッカーでは1度に1点までしか入らないので、まず同点になって、それから逆転と段階を踏む必要があります。1打逆転は競技のルール上、あり得ないのです。
 逆転の展開を描くには、時間の早い地点で、まず同点にしておかないといけません。


まとめると、野球は個を描くのに適していて、満塁逆転ホームランなど1打で物語を大きく動かすプレイがある。サッカーは、チームプレイ前提で個が描かれ、1プレイで流れが変わることはあっても、それだけで逆転することはない。といったところでしょうか。
だいたいの競技がどちらかに分類できると思います。テニスやボクシングは野球型(実は、野球はとても個人競技的だと思います)、バスケやラクビーはサッカー型です。すべてが一致するわけではありませんが、大まかに分類することができると思います。
野球の一打逆転や「ポジション×打順」でキャラクターを効率的に描けることはストーリーを描くに適しています。一方、サッカーは、1打逆転はなく、状況を一転させることは難しいです。残念ながらストーリーを描くには野球ほど適していないように思います。
競技としての優劣とは関係ありませんですが、物語の作りやすいさとしては、野球型に長があります。サッカーで名作と呼ばれる作品は、物語には向いていない競技上の特徴を克服する工夫が行われています。

はたして将棋は向いているのか?

さて、それで将棋はどちらに分類されるでしょうか?

○将棋

・1対1とみせかけて集団戦に近い

 ご存知の通り、将棋は1対1で戦うものです。しかし棋士ではなく、コマ単位で考えれば集団戦です。局地戦を繰り返しながら、王に迫り、迫られます。
 意外とコマ得という形で、局地戦では勝ち続けていたのに、いつの間にか深く敵駒の侵入を許しているときなどあります。サッカーのカウンターに似ているようにも思います。競技中の棋士の立ち位置はサッカーの監督に近いかもしれません。

・戦法からキャラクターを導きにくい

 将棋ではポジションに当たるものはありません。初期の駒の配置は全員共通、能力も共通です。戦術はいろいろあります。振り飛車でしっかり守ってからのカウンタータイプとか、居飛車穴熊で堅守からのじわじわ締め上げてくるタイプとか、様々です。棋士ごとに得意とする戦法はありますが、指し始めるまで分かりません。戦法とキャラクターはある程度切り離されたものです。そもそも描くべき人物が、自分と相手の2名のみなので、丁寧に描写することはできるかと思いますが。

・一打逆転はあり得る、けど

 将棋は局地戦の連続です。負け続けていてる状況から、一手で逆転することはあり得ます。「攻防の効いた好手」とかいいますけど、一手で状況が変わることはあります。棋譜を眺めているとき、あまりの鮮やかさに思わず息が漏れることがあるほどです。
 しかし、分かりにくい。将棋は現在の状況を点数で示すことができないのです。一打逆転があっても、分かりにくいのでは、作劇上、ないに等しいのではないでしょうか。

以上から将棋は、サッカー型なのではないかなと結論づけました。つまり、物語にしやすい競技ではないのです。(あれ、最初の感覚と違う結論、、、)確かに「3月のライオン」も盤面を丁寧に追ってるわけではありません。

将棋を、その競技を物語にするための工夫を考えてみたいと思います。まとまったら、更新します、、、(未定!)

はじまりがゆっくりとしていていいのか

劇団の新人公演も終わり、ひと落ち着き。お休みの日に、録り貯めていた春の新ドラマを見ることにしました。続けてみていると、あれ? と思うことがありました。
ふーむとうなっていると、彼方が帰ってきました。
「ただいま」
「おかえり」
「どうしたのいつもどおり、こむづかしいこと考えてるような顔をしてるね」
「うん、こむづかしいことを考えてるの」
私は彼方に今日していたことを説明しました。といっても、録り貯めた新ドラマをだらだらと観ていただけですが。
「どれが面白そうだった?」
「それが、よく分からないの」
「どういうこと?」
「起承転結がしっかりしてるんだ」
私は、ドラマを見ながら考えたことを、丁寧に言葉として紡ぎました。

そもそも起承転結とは?

ドラマの基本は起承転結とされています。
気軽に使ってしまうけど、ちゃんと活用しようと検討をはじめるととても奥が深い言葉です。調べてみると、もともとは漢詩の絶句の構成を表す言葉だったそうです。それがいまでは物語の構成を表す言葉になっています。
Wikipediaでまとめられている、脚本家・小国英雄さんの解釈が分かりやすいと思ったので、引用させてもらいます。
起: 主人公の置かれている状態、劇の説明
承: 主人公の置かれている状態にある事件が起こり、これから段々劇が展開して行く過程
転: 一つの劇のヤマ場で結果に赴く為の転化
結: 承、即ち事件とそれによって起こった転化によって出された結果
起はあくまで設定の説明に過ぎず、事件が起こるのは承とされています。
Wikipediaを読み進めると、”批判”の項目がありました。
要約すると
①論文など説明を趣旨とした文章の構成には向かない。
②それぞれの配分が等分だと、起(設定)が間延びして退屈なものとなる。
の2点からなっていて、起承転結が物語の構成として、致命的な欠点を持っているという批判ではありません。
しかし②の批判は的を射ていています。
特にコミュニケーションが高速化した現代において、物語の展開も高速化しました。設定を丁寧に説明していては間延びする、読者が退屈を感じるという考えが主流となっていました。そこでどんな対策が取られてきたのか、具体的な例でもって説明します。よくあるミステリー、館ものだと構成は次のような形になります。

起:主人公たちが館にやってくる。人間関係が説明される。
承:殺人事件が発生する。密室殺人など、犯人が分からない。
転:探偵役が密室のトリックを見破る。
結:トリックが説明され、犯人が判明する。

よくある感じです。本当はもうちょっと複雑なのですが、分かりやすくするとこんな感じでしょうか。しかし物語の高速化した現代では、次のような構成になります。

承(起):物語のはじまりと同時に殺人事件が発生する。捜査しながら人間関係を説明する。
転:探偵役が密室のトリックを見破る。
結:トリックが説明され、犯人が判明する。

起と承が一行に収まりました。現代では、起と承が同時に行ったり、あるいは先に承(事件を発生)をもってきて、読者が退屈と思う間を奪うようにしています。

現代のドラマは高速化したのではなかったのか?

「じゃあ、起承転結がしっかりしてたってことは、退屈を感じた」
「まさにその通り。全部がぜんぶってわけじゃないけど、今期は第1話のうちに、60分じゃなくて、15分拡張とかなのに、設定の説明しかしていないドラマが多かったの」
「なるほどね」
「設定の説明だけでも、台詞のセンスあるなぁとか、人物造形がユニークだなぁとか、分かることはあるけど、でも物語の中心となる事件、立ち向かう課題が明らかになってないから、面白いかどうか、判断できないの」
それから夕食を取りました。レタスを咀嚼しながら、誰も興味をもたないような私の戯言をちゃんと最後まで聞いてくれる彼方は素敵だなと思いまいした。

慣れないことがうまくいっているかは判断できない

劇団に顔を出しました。ひさしぶり過ぎて、うまく状況が把握できていないのですが、今度、上演を予定しているそうです。
新人公演で、ごく小さなもの。といっても告知してるみたいですし、お客様を迎えて、貴重な時間を頂戴する以上、中途半端なものはできません。っていうかしちゃダメです。
だけど現実はなかなか甘くなくて、なかなかひどい出来。反省したのは、演出はそこそこに慣れてるやつだから安心していたのですが、どう演出をつけてもうまく演じられない役者に困りきっていたそうです。なるほど、役者がみな新人だったのが間違いだったみたいです。一人でもうまいやつ紛れてたら、真似とか、うまくなるきっかけがあったんでしょうけど。演出を受け方さえ知らない役者ばかりでは、そうとう演出が頑張らないとうまくいかないのか。
仕方ない、ひさしぶりに一肌脱ぐか! 余計な口出しをして役者どもを混乱のどん底に落とし込んでやる!
と、気合を入れてみたのですが、役者が集まらないことにはまともに稽古できない、、、新人で、慣れてないくせに、参加率も低いとか、、、いくらかアドバイスはしたのですが、踏み込んだことはできませんでした。わりと時間を無駄にしてしまったような気がして、肩を落として、おうちに帰りました。

おうちに着くと、すでに彼方が帰っていました。
「遅かったね」
「たまにはね」
向かい合って夕食を食べて、それから脚本をとりかかることにしました。近くに上演を控えている劇団とはまったく別のところで、私は朗読劇を予定していました。
7割方書き上げていたので、頭から読み返して、そのいきおいのまま書く。書く、書く、書く。なんとか書ききりました。深く息を吐いて、白湯を飲みながら、改稿を考えました。
最後まで書きはしたものの、まだ上演に値する内容にはなっていなません。物語が始まるまでに時間がかかりすぎているし、説明が多すぎるんだろうな、まずは前半を削ぎ落していかないといけない。後半は、どうだろう? 悪くはないと思う、だけど唐突かもしれない。普通の演劇、ストレートプレイだったら、ほとんどしゃべらず、深刻な顔でじっとしていれば、何か思い詰めているのは伝わるし、多少情緒不安定でも成立する。しかし、朗読劇では。朗読劇の台本を書くのははじめてで、勝手がわからないところが多いです。でも、だからこそこんな方法はどうかなと新鮮な気持ちで考えられるので面白い。
すこしやり方を考えていると、なるほど、朗読劇なのだから、台詞を削って、ト書きにしてみるのもありかもしれない、と思いました。下策でなければいいけど。
具体的ではありませんが、方向性は見えたところで、彼方が「いつまで起きてるの?」と聞いてきました。この気持ちのまま改稿したい気もするけど、いちど寝かせることも必要かもしれない。
錠剤を一粒飲んで、しばらくしてからさらに2種類の錠剤を飲みました。おやすみ。

山口県周南市や下松市の文系ねっとわーくを構築すべき活動中! ここでは演劇や映画、小説の感想、近隣の文系イベント情報を紹介します。

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