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私、居場所を見つけたよ-映画「この世界の片隅に」

周南「絆」映画祭に来場して、「この世界の片隅に」を鑑賞していきました。

映画「この世界の片隅に」(監督:片瀬須直)
あらすじ:広島市江波の海苔梳きの家で育ったすず(CV:のん)は、絵が得意だった。18歳になり、すずは江波から遠く離れた呉に嫁いだ。創意工夫を凝らしながら食糧難を乗り越え、毎日の食卓を作り出す。すずの日常とは裏腹に、やがて戦争は激しくなっていき、軍港のある呉も空襲の標的となる……

とても素晴らしい映画でした。ひとりでも多くの人に見てもらいたい。“今までにないタイプの戦争映画”と大槻ケンヂが評していましたが、まったくそのとおりです。世の中にある多くの戦争映画は「戦争は残酷なものだ、悪いことだ」って誰でも知っている当たり前のことを見せつけてきます。悲惨な映像に顔をしかめながら、こんなのさんざん学校で習っている、小学生のときにいった広島の原爆資料館とかで見ている、いまさら映画に教えてもらうまでもないと思ったりもします。
「この世界の片隅に」では、戦争はあくまでも物語の背景に過ぎません。その時代を生きていた人の日常を描いていています。
物語はすずの視点から描かれています。すずは、ぼんやりとした女性です。ふわふわと浮遊していて、世間の変化にはあんまり影響されずに懸命に毎日を送っています。
そのことが戦争によって変わってしまったこと、それでも変わらないことを浮き彫りにします。どんな時代であっても、人間は笑ったり悩んだりしながら生きているし、家族を作る。「この世界の片隅に」は戦争を題材にしていますが、反戦映画ではなくて、戦時下でも変わらない、普遍的な「人間賛歌」を描いた映画だと感じました。

声優・のんについて

のん(本名・能年玲奈)の演技が、絶賛されていますが、果たしてどうでしょうか。
けして演技はうまくないと感じました。声優の演技の基礎にして、なかなか難しいところとして、距離感があげられます。俳優なら実際に目の前にいる人に、本当の距離感をもって演技すればいいのですが、声優の場合、絵をみて、距離を立体的に想像して、声に距離感をのせて演技しないといけません。のんの場合、距離感の表現がうまくいっていない箇所が多数みられました。でも、そんなことは些細なことだと言えるくらいに役にはまっていました。はまり役というだけじゃなくて、好演技でした。空間を正確に伝えることよりも、世界観を豊かに表現することに重きを置いていたのでしょう。それは間違いなく成功していました。
「あまちゃん」のときの思ったのですが、のんの演技はけして上手いわけじゃありません。でも唯一無二の存在感をもっていて、彼女にしかできない役がまだまだたくさんあるはずです。これからの活躍が期待できる役者さんです。

作品名は「この世界の片隅に」

最後になりましたがタイトルについて。「この世界の片隅に」。書きかけの文章のようで、続きを想像させます。「片隅に」何があるというのでしょうか。
きっと観客の数だけ答えがあるのでしょうが、けしてネガティブな言葉が続くことはないでしょう。
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見立てが通じなくなる日が来てしまうのだろうか-勝手に危惧する

先日、とはいっても、もう10日ちかくも前、GW中のことです。一人芝居を観劇してきました。一人の役者が、いくつものキャラクターを演じるものでした。

上演にさきがけて、前説がありました。
スタッフらしき女性が、舞台の端のほうに出てきます。人前にでるのが苦手なのか、おどおどを通り越して、挙動不審です。
女性は、落ち着かない様子で、上演前の説明をはじめます。
携帯電話は電源を切るか、マナーモードにしておくこと。おしゃべりはいけないが、面白いと思ったら、笑うこと。最初はおどおどとしていた女性も、次第に落ち着いてきたようでした。挙動不審は相変わらずでしたが。最後に、拍手の練習をさせられました。
「拍手は大きい音で、たくさんしてください。役者が、気持ちよくなります」
こんなふうに言われたら、芝居に慣れていない人でも薄々気づくのではないでしょうか。そうです、前説の時点ですでに芝居は始まっていて、一人芝居をする役者がスタッフを演じていました。BGMが大きくなり、役者が観客の目の前で、いかにもスタッフらしいシャツを着替え、場面が移り変わっていきました……。

役者が巧みで、一人芝居は見ごたえのあるものでした。
感想はいろいろとあるのですが、いま思い返してみると、あの一人芝居を演劇をまったく見たことがない人が見たとしたらどうなのだろうかと、ふと気になりました。

一人芝居とは

一人芝居とは、その名の通り、出演者が一人の芝居のことです。
落語のように一人の役者が複数の役を演じることもありますが、多くの場合は、役者はひとつの役しか演じません。会話はありますが、相手役はいません。つまり、透明人間を相手に演じてみせることになります。
視線のやり方、間の取り方など、なかなか技術が必要です。一流の役者の一人芝居は、いない相手がまるでそこにいるように感じられます。いわば匠の技で、それを生で見ることができただけでも満足できるものです。

しかし、透明人間を相手に演技する一人芝居という手法は、演劇をまったく見たことがない人にも通用するのでしょうか。
一人芝居に限った話ではありません。演劇では、見立てやパントマイムがよく行われます。

見立てとは、いちばん分かりやすいのは落語でしょうか。扇子が箸になり蕎麦を食べたり、煙管になって一服したり。演劇では見立てを活用した舞台装置がよく使われます。写実的に作り込むのではなく、例えば、モノトーンな台が置かれているだけの抽象的な空間です。舞台装置そのものを変えることなく、照明の変化などで場面転換をします。
パントマイムは、いうまでもありませんね。有名なものでは、ガラスやロープなど。その場にないものを身体表現で見せてしまう手法のことです。
これらの手法は、演劇的素養のまったくない人には分かってもらえないのではないかとふと思ったのです。

見立てはいつまで通じるのか

現代社会において、物語を一番目にするのはテレビやパソコンでしょう。そこで流されているのはドラマや映画です。
ドラマや映画には、一人芝居やパントマイム、見立ての手法はありません。別の場面に切り替わりときは、別のロケ地で撮影します。ウルトラマンが変身・巨大化するときも、ちゃんとミニチュアの街を用意して、見えないものを視聴者に想像・理解してもらうことはありません。
いずれ見立てといった手法は通用しなくなってしまうかもしれません。
私が、こんな危惧をしているのは、まだ高校生だった頃。友人を誘い、某ロックバンドのライブを見に行きました。ライブのクライマックスに、ギター破壊のパフォーマンスを見ることができました。私は「生で見るのははじめてだぜ」とほくほくした気持ちになっていた増したが、帰り道、友人は不思議そうな顔をしていました。理由を聞いてみると「すごく演奏がうまいように思ったけど、プロからしたら納得できる演奏じゃなかったのかしら」。なんと友人は、自分の演奏に満足できなかったからライブの最後に楽器を破壊したと理解したのです。「あれは伝統芸なんだよ」と説明はしませんでした。友人はきっと誤解したままです。でもそれでいいんです。だって、何か面白いから。

本筋からそれてしまいましたが、伝統芸であるギター破壊が普段はロックミュージックをまったく聞かない友人に理解されなかったように、テレビドラマや映画で純粋培養された世代には落語・演劇的見立てが通用しないではないでしょうか。
扇子で蕎麦を食べる落語家を見て、あれは何をやってるんだろうか、手違いで本物の蕎麦が用意できなかったんだろうかと失敗と思われてしまうかもしれません。なんと恐ろしい。いずれ通用しなくなるではなく、すでに理解できない人が存在するかもしれません。

とくに地方では、本物を生で見る機会が乏しいです。文化的背景が失われてしまったがために都会で通用する本物が地方では通用しない。そんな事態を避けるためにも、面白そうなイベントをかぎつけて、広くに知らせなくてはいけない。過去から連なる現代を生きるものの果たすべき務めだと思いました。

出会わせない作家が出会わせるとき-小説「言の葉の庭」

「君の名は」で一躍有名になった新海誠監督。それ以前の作品も、見る価値のある作品ばかりです。好んで、繰り返し観ていました。ノベライズも何冊か読んでいましたが、小説「言の葉の庭」を読んで、本人が書いた小説を読んだことはなかったなと気づきました。

小説「言の葉の庭」(新海誠)

あらすじ:靴職人を志す少年・秋月孝雄と“上手く歩けなくなった”女性・雪野百香里は雨の降る日に出会った。二人は雨に日に逢瀬を重ねていく……。

小説「言の葉の庭」は、映画「言の葉の庭」のノベライズです。執筆期間は映画の上映期間中。約45分の短編映画が先にあって、そこにさまざまな物語が加えられて、長編小説になっています。
追加されたエピソードはどれも後から付け足したようには思えませんでした。映画では横切るようしか出てこなかった人物や、まったく登場しなかった人物さえ、秋月くんや雪野さん(あるいは読者)の心をざわつかせるためには必須のように感じました。映画では分からななかったこと、描かれていなかった部分を補足するような形になっていますが、蛇足には陥っておらず、映画の余白を埋めながら、新しい余白が生まれていました。読後感も、物語のその後を想像させるもので、とても心地よかったです。

出会わせない物語

新海誠さんは、「出会わせない監督」と評されることがあります。
その通りだと思います。「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、序盤で主人公とヒロインの繋がりを描いて、終盤あるいは終焉まで二人は出会いません。「君の名は」でも、あれでも初期からの新海ファンは「いままでの新海監督だったら、すれ違って終わりだったのに……」と驚きの声をあげていました。
強い繋がりを持った二人が、出会わないで、出会わないまま終わるのが、新海ワールドといっても過言ではありませんでした。
「言の葉の庭」もどちらかといえば出会わない物語ですが、従来の作品群とはちょっと違うように感じました。
二人は日常をともに過ごしたりはしませんが、限定された場所で幾度となく出会います。そして、「言の葉の庭」という物語は、再会を想像させるところで幕を閉じます。小説「言の葉の庭」を読んで強くそう思ったのですが、映画のほうも再会を否定する内容にはなっていません。
「言の葉の庭」以前の作品は別れにより成長を感じさせてくれるものが多いです。(それはそれでいい幕引きなのですが)「言の葉の庭」以前と以降で、新海誠さんのテーマというか、作家性に変化を感じました。物語としてはありふれたかたちなのかもしれませんが、出会わないことを描き続けたうえで発展したものは、それまでに積み重ねたものという点で一線を画していると思います。(それはより大衆化して、「君の名は」に繋がるものだと感じました)

物語の視点

映画同様に風景描写が素晴らしく、都会の、私の知らない光景のはずなのに、目の前に浮かんでくるようでした。
それから、視点が、本職がアニメーション監督だからでしょうか、小説の作法には乗っ取っていませんでした。
小説を書くうえで、視点はとても重要なものとして考えられています。誰の目から語られている物語か、ということです。(それを逆手にとった、信用できない語り部という手法もありますが、今回は関係ありませんので、別の機会に)
新海誠さんの小説「言の葉の庭」では、一人称のような三人称で、現代小説ではあまりよい方法とされていない神の視点に近いような、それとも違う、独特の視点で描かれていました。
基本は三人称単視点なんですが、ふいに一人称になったり、かと思えば、三人称でも俯瞰しか視点になったり。映画のカット割りのようでもありましたが、かなり心中に踏み込んでいました。いちばん似ているのは、漫画だと思います。
漫画は多くの場合、一人称的なのですが、複数の人物の心中吐露が一つのコマで同時に描かれることも珍しくありません。いくつもの視点を行ったり来たり、ときに同時に描いたりします。映画や演劇も、小説に比べ、視点の自由はありますが、漫画ほどではありません。
視点の切り替わり方、心中に踏み込んでは、俯瞰に移行するさまなど、なるほど、漫画的な自在さがありました。ほかの小説では味わえない読み心地で、とても面白かったです。

調べてみると、新海誠さんは、他の映像作品も、自身でノベライズしたものがあるみたいです。そちらもぜひ読んでみたいと思いました。

結論を描いている以上、魅せるべきは過程にしかない-いちご100%の続編の連作が始まる

まっすぐ歩かないから まっすぐ歩けないから
僕が歩いたあとは 曲がりくねった迷路
迷路 迷路 迷路 迷路
「迷路」(ザ・ハイロウズ)

間違いなくいまの私に影響を与えている作品の続編が「少年ジャンプGIGA」にて連載がはじまりました。

「いちご100% East Side Story」(河下水希)

あらすじ:中間が中間古書店で店番をしている主人公・仲間は、ある日、客としてきた、まるで「野いちごのような」女子大学生に一目ぼれをする。顔見知りになったころ、ふとしたことから女子大生は「中間」のことを「真中」と呼び、涙を浮かべ、店を飛び出して行ってしまう、、、

2002~2005年代にかけて週刊少年ジャンプで連載された「いちご100%」の続編となる物語です。「いちご100%」は、主人公・真中淳平の将来の夢と恋愛にうだうだと悩み続ける物語です。そういってしまえば、それまでですが、ドタバタラブコメをやっている一方で、真中が将来の夢や目の前の恋愛に悩むさまは等身大で、胸を打つものがありました。
あの物語の続編。正確には「いちご100%」本編の途中、高校を卒業してから、最終話(卒業から4年後)で一同が再会する間までの物語のようです。

全何話の予定しているのか、分かりませんが、第1話を読んで、すこし首を捻る。導入としてはあまりにもあっさりしていて、前作に思い入れのない人には、絵がきれいなだけのよくある作品に見えるのではないでしょうか。
前作を知っていて、東城における真中の占める大きさを知っていれば、ああ、そうだよね、すぐに吹っ切れるわけじゃないよねと、自身の体験を思い返しながら読むことができました。

前述のとおり、高校卒業から再開までの間を埋める物語です。パラレルワールドではなく、きれいに繋がるためには、東城が ①作家として飛躍すること ②真中への心中を整理することが必須事項となるかと思います。
結論はすでに決まっています。魅せるべきは、結論に至るきっかけ・理由と心中描写。少女漫画と少年漫画のハイブリット漫画かである河下水希さんがどう描くのか、とても楽しみです。

はたして将棋は物語に向いているか

先日、映画「3月のライオン」を見ながら、将棋という競技は、あんがい物語の題材に適しているのではないのかと思ったので、すこしまとめてみたいと思います。

野球型とサッカー型

まずスポーツものは大きく2種類に分けることができると思っています。スポーツそのものの特徴ではなくて、漫画や小説など物語として描こうとしたときの構造の話です。

○野球型

・1対1の連続

 球技はほとんどの場合、ボールのある位置が物語の中心になります。野球の場合はピッチャー対バッターの、いわば一騎打ちが物語の基点となります。それまでの展開に関係なく、たびたび基点に戻り、一騎打ちから物語が再開されます。2ストライクからのヒット、追い込まれてからの逆転も当たり前というのも描きやすいポイントかもしれません。
 ちなみにチーム・仲間たちは、ピッチャーが打たれたとき、つまり負けたときにフォローする存在として登場します。打たれてしまったけど、好守備によりアウトを取ることができた、とか。あるいは、出塁者したとき、孤島のような塁からホームに自分をつないでくれる存在として登場します。

・ポジション・打順から導き出されるキャラクター

 野球はポジションだけでキャラクターがある程度イメージできるようになっています。例えば4番ファーストだと、守備よりもバッティングで活躍するキャラクターだなとか、1番センターだと俊足だなとか。1チームを構成するだけでも9人、試合になれば最低18人は登場します。全員をこまかく描くのは大変です。主要なキャラクターは丁寧に描くにしても、その他のキャラクターはポジションで説明することで、効率的に物語を進めることができます。どんなチームなのかは、主要なキャラクターの能力に準じて設定されると思います。

・一打逆転があり得る

 9回裏10点差からでも逆転が可能です。極端な話、10打者連続ホームランで大逆転できます。それをやってしまうとあり得ないと読者は引いてしまうと思いますが、例えば、3点差で負けているなんて状況。チームメイトの懸命のバッティングにより2アウト満塁、満を持して主人公の打席……なんてのはよくあるパターンではないでしょうか? 野球では最大一打で4点まで得ることができます。凡打なら負け、ホームランなら一発逆転。最後まで分かりません。

○サッカー型

・集団対集団

 フィールド全体は連動しています。野球も厳密にいえば連動しているのですが、サッカーほどではありません。サッカーの場合、ボールから離れたところでは、いい位置でパスを受ける/受けさせないためのポジション取りの争いなどが行われています。それを丁寧に描くのも面白いと思いますが、ボール=試合の流れの中心が今どうなっているのか分かりにくい状況が続きます。
 逆にボールを持っているプレイヤーの視点から考えてみます。ボールを持ったはいいが、囲まれてしまった。そこに! いつの間にかディフェンダーがオーバーラップしていた。絶妙なパスを出した。窮地を救ったものが、視点の外で行われており、極めて都合のよい展開として受け止められがちです。個にフォーカスするのではなく、俯瞰した視点で描くほうが適しているように思います。

・チームカラーから導き出されるキャラクターはぼんやりと

 もちろんサッカーにもポジションはあります。しかし野球ほど、キャラクターの個性に直結はしません。(野球の場合、守備位置×打順なのでキャラクターが見えてくるのです)サッカーは11名と野球よりも必要人数が多いのに、効率的に描く方法がありません。
 一方で、野球よりもチームの戦法から個を描いていくことはできます。「強力なフォワードがいて、堅守カウンターのチームだ」「突出したプレイヤーはいないが、運動量からくる数の利で攻めてくる」など。チームの戦術を実現するための選手が見えてきます。しかし、サッカーは集団戦です。似たような選手が複数生まれ、個を描くには至りません。

・一打逆転はあり得ない

 大差から逆転することはできます。前半0-3だったが、後半で逆転、4-3で勝利したとか。きっとハーフタイムで、「相手チームの弱点が分かった」とか監督が言って、ポジション修正かマンマークかあったのでしょう。
 ただ、競技の現実性を考えれば、後半ロスタイム突入から3点差を逆転させることができません。野球と違い、サッカーは試合時間が限られています。現実的に逆転できない領域があって、それを超えてしまえば、都合のいい展開と読者に見放されてしまいます。しかもサッカーでは1度に1点までしか入らないので、まず同点になって、それから逆転と段階を踏む必要があります。1打逆転は競技のルール上、あり得ないのです。
 逆転の展開を描くには、時間の早い地点で、まず同点にしておかないといけません。


まとめると、野球は個を描くのに適していて、満塁逆転ホームランなど1打で物語を大きく動かすプレイがある。サッカーは、チームプレイ前提で個が描かれ、1プレイで流れが変わることはあっても、それだけで逆転することはない。といったところでしょうか。
だいたいの競技がどちらかに分類できると思います。テニスやボクシングは野球型(実は、野球はとても個人競技的だと思います)、バスケやラクビーはサッカー型です。すべてが一致するわけではありませんが、大まかに分類することができると思います。
野球の一打逆転や「ポジション×打順」でキャラクターを効率的に描けることはストーリーを描くに適しています。一方、サッカーは、1打逆転はなく、状況を一転させることは難しいです。残念ながらストーリーを描くには野球ほど適していないように思います。
競技としての優劣とは関係ありませんですが、物語の作りやすいさとしては、野球型に長があります。サッカーで名作と呼ばれる作品は、物語には向いていない競技上の特徴を克服する工夫が行われています。

はたして将棋は向いているのか?

さて、それで将棋はどちらに分類されるでしょうか?

○将棋

・1対1とみせかけて集団戦に近い

 ご存知の通り、将棋は1対1で戦うものです。しかし棋士ではなく、コマ単位で考えれば集団戦です。局地戦を繰り返しながら、王に迫り、迫られます。
 意外とコマ得という形で、局地戦では勝ち続けていたのに、いつの間にか深く敵駒の侵入を許しているときなどあります。サッカーのカウンターに似ているようにも思います。競技中の棋士の立ち位置はサッカーの監督に近いかもしれません。

・戦法からキャラクターを導きにくい

 将棋ではポジションに当たるものはありません。初期の駒の配置は全員共通、能力も共通です。戦術はいろいろあります。振り飛車でしっかり守ってからのカウンタータイプとか、居飛車穴熊で堅守からのじわじわ締め上げてくるタイプとか、様々です。棋士ごとに得意とする戦法はありますが、指し始めるまで分かりません。戦法とキャラクターはある程度切り離されたものです。そもそも描くべき人物が、自分と相手の2名のみなので、丁寧に描写することはできるかと思いますが。

・一打逆転はあり得る、けど

 将棋は局地戦の連続です。負け続けていてる状況から、一手で逆転することはあり得ます。「攻防の効いた好手」とかいいますけど、一手で状況が変わることはあります。棋譜を眺めているとき、あまりの鮮やかさに思わず息が漏れることがあるほどです。
 しかし、分かりにくい。将棋は現在の状況を点数で示すことができないのです。一打逆転があっても、分かりにくいのでは、作劇上、ないに等しいのではないでしょうか。

以上から将棋は、サッカー型なのではないかなと結論づけました。つまり、物語にしやすい競技ではないのです。(あれ、最初の感覚と違う結論、、、)確かに「3月のライオン」も盤面を丁寧に追ってるわけではありません。

将棋を、その競技を物語にするための工夫を考えてみたいと思います。まとまったら、更新します、、、(未定!)

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